ありがとうを求めること【偽善】
中学生の時に、なりたい職業がわからないと母と話していた時、看護師はどう?と勧められた。その時、看護師の仕事なんて偽善じゃんと一蹴していたらしい。
(この当時のことは全く記憶ないです。不快にさせてしまったら申し訳ございません。人を助ける素晴らしい職業だと思っています。)
でも実際”偽善”が何かよく分かっていなかったし、今でも得体が知れなかった。
そこで、この本を読んでいたら、それらしい答えが出てきた。
「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書) | 泉谷 閑示 |本 | 通販 | Amazon
ひとつ、相田みつをさんが、「人のために善いことをすると書いて偽善」とどこかに書き残しているらしい。
これだけなら
読みたい漫画を貸してあげるよ、だとか
宿題移させてやるよ、だとかも
人のために善くすることだが、偽善だとは思わない。
偽善は
人のために善くすることではなく
「見返りを期待してしまっていること」である。
父は小学生の夏やすみにプールで500円玉をなくしてしまった女の子のために1時間ほど一緒に探してあげたエピソードを思い出した。最終的に見つけたコインを少女に渡してあげたとき、ありがとうの一言もなかったらしい。父はその時の不快感を覚えているらしい。
偽善の定義に当てはめるなら自分が頑張って労働して、見つけることを達成して、感謝の見返りがなかったから不快に思ったのかなと。
いいことをしてあげたらお礼を言われるのが当然と思っていたらそうなるかもしれない。しかし、この考え方自体が偽善を生んでしまう温床になっているのではないか。日本でも世界でもおそらく何かされたらありがとうと言いましょうと親から教育を受けているはずと思っている人が多いかもしれない。親から教えてこられたものと言っても、人の生まれ育った環境によってことなるだろうし、自分の価値観で決めてしまっている。
もし周りを見渡すだけでさっと見つけられていたら不快感はゼロではないにしろ、1時間探した時より小さかっただろう。1時間には自分の時間と探すという労働を犠牲にしているという自覚が芽生えている。
この偽善の対義語として仏教としての喜捨を挙げる。喜捨は相手のことを思ってするのではなく、自分は必要ないからあなたが欲しがっているならあげるよというものである。自分が満たされている状態だったら偽善ではなくて喜捨となる。善意としてすることは感謝の言葉さえも求めなくてもいいという状態なのだ。
ギリシャに旅行しているときに、移民と思われる物乞いをしている家族が地べたに座っていた。その前を通ったとき、私は手に食べきれなかったほうれんそうのキッシュを持っていた(切れてあるので食べ掛けではない)。もう食べないだろうなと思ったから、その母親らしき人に渡した。ありがとう的なことを言っているだろうが、何語かわからなかった。まあそれっぽいことを言っているんだろう。その場を去って、ぱっと振り返ったときに母親は子供にそのキッシュを渡していた。子供は袋の中身を見てぽいっと捨てていた。緑色がおいしくなさそうに見えたんだろうな。あまりにも呆気なく横たわる紙袋にあーあとは思ったが、子供の素直さに吹いてしまった。そしてまあいっかと他の目的地に向かった。この行為は喜捨に当たるものだったんだろうなと思う。
ギリシャの時は余裕があり、府の感情はたまたま生まれなかったが、また自分が誰かに施すとき、見返りを求めてしまったとき、よろしくないなと自分を戒めたい。
感謝をないがしろに捉えているわけではない。あくまで人のためにすることをしている当事者の話である。逆を取れば、誰かがしてくれた好意に対して感謝を示していればその相手は満たされるため良いと思う。そのため他人から何か受け取ると感謝は常にした方がいい。
精神学者フロムは赤ちゃんは欲望のままにいて「未熟な愛状態」であるが人は成長によって愛が成熟していく。年とともにある程度は成熟するかもしれないが、その度合いはその人自身の意識の持ちようによるだろう。
聖人君主・悟りを開いた人じゃないとそんな風に考えられないんじゃないかとの反論があるかもしれない。欲望がない境地で他人に愛を与えるところを目標にすると気後れになってしまう。素晴らしい地点を境界線で自分を区切ってしまうと自信の成長に見切りをつけるためしたくない。自分が愛を与えられるような成熟した人になるには自分をまず満たすことが必要だ。できることから少しだけでも。余分な部分から、余裕から愛が生まれる。